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7 スパイスの歴史に関するお話
スパイス戦争時代
16世紀における南半球の支配は、スペインとポルトガルであり、ポルトガルは、インド(1510年)をはじめ、アフリカ南部、セイロン、マラッカ、スマトラ、ジャワ、モルッカ諸島、中国の広東、マカオを制し、1543年には、はじめて豊後の神宮浦にポルトガル船が入港、その年の10月には種子島、次いで薩摩といった具合に、日本へ次々とポルトガル船が来航しています。1549年には、たまたまマラッカへ渡っていた鹿児島の青年、安次郎は、ここでキリスト教をアジアへ布教中のザビエルに会い、この神父とともに日本でキリスト教を広めようと鹿児島へ上陸しています。ポルトガル人がはじめて、唐がらしの種子を日本にもたらしたのは、それよりも早く、1541年であるという記録が残っています。

大友宗麟(豊後)、有馬晴信(島原)、大村純忠(大村)の3人のキリシタン大名が、イタリヤ人司祭ヴァリニャーノにたのんで、4人の九州の名門の少年を長崎からヨーロッパへ派遣したのは、1582年で、天正少年使節として歴史上有名です。この4人は、ポルトガル、スペイン、イタリヤ等ヨーロッパ先進諸国を訪問、種々の体験をしながら知見を広め、8年5カ月後の1590年7月21日に長崎へ帰り着いています。翌年正月に豊臣秀吉との謁見の席での賜物の中には、ミラノの鎧、サーベル、鉄砲、ゴブラン織りなどとともに、モルッカのクローブ、バンダ島のナツメッグ、セイロンのシナモンなどのスパイスが含まれていました。

中世のヨーロッパでは、スパイスはもう薬用としてだけでなく、勿論まだ調味料としてでもなく、肉の貯蔵用としてより重要な用途をもっていました。必ずしも上流階級だけでなく一般大衆にも広がり、かなり大量に消費されるようになっていました。それは、以前の陸路のスパイス交易路、中国→中央アジア砂漠地帯→トルコ→ベニス(シルクロードと呼ばれる)のコースにかわって、スパイスロードとも呼ぶべき海洋貿易路が開拓されたからであり、スパイスが比較的容易に手に入るようになったからです。

新しい飲食物として、トマト、馬鈴薯、トウモロコシ、コーヒー、紅茶、レモンなどが加わり、奴隷を使っての砂糖や果物の生産が盛んになってきますと、食生活は次第に生命を保つためのものから、楽しみながら味わう食文化の方向へ発展し、カルダモン、ジンジャー、クローブ、ナツメッグ、シナモンなどのスパイス類は、その香気が重要な意味を持つようになってきました。

カルダモンやジンジャー、シナモンは、すでに各地で栽培されていたので手に入れるのに特に問題はありませんでしたが、こしょうやクローブ、ナツメッグはそれぞれマラバル、モルッカ、バンダにしか産しなかったので、ヨーロッパ各国はその争奪に血まなこになりました。それが、東南アジアにおけるスパイス戦争です。

ポルトガルがまず制海権をとり、次いでスペインが最強国の一つとして進出したことは前述したとおりですが、この2国が搾取と掠奪を旨として植民地を獲得していったのに対し、16世紀後半、イギリスは、海賊行為でスペイン、ポルトガルの領海への進出をはじめています。

エリザベス1世の指令でドレークは、マゼランの開拓したコースをたどり、モルッカを目指し、南米の各地でスペイン船を襲いながら2年後にターネート島に着き、友好同盟を結んだのを皮切りに、イギリスは、1600年に東インド会社を設立し、ここを拠点にして、モルッカでポルトガルやスペイン船から略奪する海賊行為で権力を伸ばしていきます。

その後、オランダも東方モルッカ諸島に進出し、イギリスと異なり、印象よく交易をしたので、大いに歓迎され、次第に支配権を拡大していったのです。

1600年3月26日、豊後(大分)にオランダ船「リーフデ号」が漂着し、その航海長のウイリアム・アダムス(イギリス人で後に日本名を三浦按針といいました)は歴史上の人物として有名ですが、このリーフデ号は、実はオランダからマゼラン海峡を経てモルッカ諸島のスパイスを目指して航海していた5隻の船団の中の1隻で、途中嵐のために分散して漂着したものでした。

そのアダムスは、家康の命を受けて120tの洋式船「サン・ブェナベンツーラ号」を建造しました。京都の商人田中勝介ら22名の日本商人がこの船に同乗し、日本人として初めて太平洋を渡り、カリフォルニヤ、アカプルコ、メキシコシティを訪れています(1601年)。

1614年には、スペイン船に便乗した仙台藩士支倉常長は太平洋を渡りアカプルコへ上陸し、メキシコ東岸からさらにスペイン船に乗り、大西洋を横断したはじめての日本人となりました。

その後、徳川家康は御朱印船を承認、延べ十数万人もの日本人が海を渡りました。フィリピン、ベトナム、タイ(シャム)、カンボジア、マラッカ、スマトラ、ジャワ、サラワク、セレベス、モルッカなど東南アジア諸国との貿易は開け、各地に日本人町もできましたが、家光の時代に鎖国令が敷かれ、交流の路はわずか40年で閉ざされてしまったのです。

この御朱印船による日本商人の貿易は、現地の産物を買い占める方法をとったので、価格高騰を招き、ヨーロッパ商人にはきらわれました。フィリピンを支配していたスペインの役人は、「生糸の値段が上がるから、スペインの買い付けがすむまで日本人に売ってはならない」という命令を出しています。また、タイでは、日本人が12万枚もの鹿皮を買い込んだので値が3倍にもつり上がったなどの事実が記録されています。この頃、日本ではこしょうは、まだ薬として用いられていたにすぎませんが、コーチン産のこしょうは、日本に荷揚げされた時には、現地価格の200倍にもなっていて、日本商人は、この御朱印船の持ち帰った品で100%の利益を手にしたといわれています。

鎖国令が敷かれたころには、オランダがモルッカ、マラッカなどのスパイスの支配権をほぼ完全に掌握し、18世紀末までの2世紀にわたり繁栄の時代を築きました。東洋への進出の統率は君主でなく商人グループであったオランダは、ポルトガルと違いキリスト教の布教には全くの無頓着、スパイス獲得・利益の追求に徹し商売一筋であったので、「お金が神様」的な圧制で栄華を築きました。当時、オランダの通商行動が鎖国の日本で認められていたのは、オランダがキリスト教の布教をしなかったことによるものといえましょう。(長崎の出島)

オランダが東南アジアのスパイスの宝庫を完全に独占しているかにみえましたが、その裏では現地民たちは、ポルトガル、スペイン、イギリスとのスパイス取引を続けていました。フランスは、こっそりクローブやナツメッグの苗木を持ち出す方法をとり(かつてはマラバルにしかなかったこしょうが、いつしかペナンやランポンへ移植されていたと同様に)、1770年インド洋上のフランス島やブルボン島へクローブの木を移植したのを手はじめに、南米、西インド諸島などへと拡げました。イギリスも、クローブやナツメッグをペナン島へ移植しており、アラビア人も入り乱れて、スパイスの苗木は、キッツ島、セント・ビンセント島、ザンジバル島、グレナダなどの各地へと盗木移植が進みました。栽培地の広がりとともに、ヨーロッパ各国による香料諸島の領土化植民地政策は意味がなくなりました。そして、19世紀中頃には、原産地よりも移植地の方が生産高が増大し、スパイス戦争は自然消滅していくことにもなりました。

やっとその頃日本は、世界各国の文明が進歩し、近代社会への脱皮が著しいことに気付き、鎖国を解きました。そして、次第に文明開化の鐘の音が響き渡ることになったのです。

ヨーロッパ諸国が東洋へ進出する以前、日本がまだ中国や韓国との交易を中心としていた時代に、実は、日本にもすでにクローブやこしょうが渡来していました。正倉院の御物の中にその証左をはっきりと見ることができることを知る人は、以外に少ないようです。
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17世紀スペイン雄飛時代の帆船
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パナマ海峡にある古いスペイン要塞の跡
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シナモン、クローブ、カルダモン、スターアニス、ペッパー、にんにくなどが無造作に並ぶインドの露店
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カレー粉を調合するインド婦人
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スパイス・ロードの要点として栄えたバグダード路上の昔ながらの香辛料売り
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唐がらし、しょうがを売るサラワク市場の母子(マレーシア)
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サフランを計り売りするスペインのスパイス店
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ロンドンのクラシックなスパイス店
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韓国の市場の唐がらし売り
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唐がらし、にんにくを利かした韓国料理の数々
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