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ヘンリーの航海奨励とバスコ・ダ・ガマ
バスコ・ダ・ガマのインド航路発見を契機として、ポルトガル国王は、東方諸国の制圧をアルメイダ提督に命じ、20隻の艦隊を派遣し、エジプト、インドの要所を次々に手中に収めました。1506年3月16日、アラビアやペルシャの商人たちの協力を得て反撃に移ったインドのカリカットのツムリア王のひきいる200隻の急襲をはね返し勝利を収め、インド沿岸の支配権を獲得しています。

この戦闘をカナノーレ大海戦といいますが、この海戦の船乗りの一員としてマゼランが参加していました。
写真
スペインの王城(セコビア)
当時、「マラッカ海峡を制する者は世界を制する」といわれていましたが、ポルトガルはこしょう、クローブ、ルビー、陶器、象牙、カシミヤ、白檀、じゅうたん、奴隷などの交易でにぎわっていたマラッカの領土化を目指して、さらに足を伸ばします。この船団にもマゼランは参加しています。

ここで数々の功績を残した若き士官マゼランは、マライ攻略の立て役者として総司令官セラーノに注目されることとなりました。このように、ポルトガルの東方征服の航海に参加して、数々の貴重な試練を積んだマゼランは、リスボンへ帰った後、世界でもっとも偉大なもっとも大胆な冒険への夢をかり立てられるのです。

一方、マラッカ海峡征服の時の司令官セラーノは、さらに西進して香料諸島の島々で、クローブの栽培、収穫の光景を目のあたりにし、クローブが常緑樹の花の蕾であることを知ったヨーロッパ人最初の人となりました。利欲を知らない島民との間に鈴や腕輪との物々交換の方法で莫大な量のクローブを手に入れ、3隻の船に満載して、領有地マラッカへ帰港する予定でありましたが、不幸にもセラーノが乗っていた船は、途中暗礁に乗り上げて難破してしまいました。海賊の小舟を分捕ったセラーノは、難破者と共にモルッカ諸島の一つアンボイナ島に引き返し、そこで、酋長の友好的寛大なもてなしを受けているうちに、ポルトガル軍人としての感情に動揺が芽ばえ、名誉も資格も、危険な戦いや冒険も捨てて、この幸福な島で気がねなく自分の生活をおくる決心をしてしまったのです。

1514年、モルッカ諸島テルナテ島にポルトガルの第2回香料探検隊が上陸した時には、セラーノは、この島の王から宰相としての高い地位をさずけられており、母国ポルトガルとの物々交換に口をはさむ立場になっていました。

その後、テルナテ島は、スパイス貿易の中での主要なクローブの取引の中心地となりましたが、テルナテ→ポルトガル→マラッカへと便りを送る機会があるごとに、セラーノは、マゼラン宛に新しい故郷と富と快適な暮らしを讃え、クローブ、ナツメッグなど、スパイスに関する詳しい情報を送り続けています。

ポルトガル軍のマラッカ征服のとき以来セラーノとマゼランの間に続いた友情のきずなは、マゼランのその後の生涯と業績に大きな影響をもたらしました。

彼らが、南海の暑い太陽のもとで戦い、苦しみ、血を流して宝物を集めている間に、リスボンの街はアレキサンドリアやベネチアに代わる商業都市となっており、10年前の一小都市から豪華な世界の中心都市に変貌していました。マノエル王家はヨーロッパでもっとも富める君主になりつつありました。

母国へ帰国したマゼランは、あまりにも変貌した港町リスボンの姿に驚かされると同時に、ひそかに財宝をかき集める高級貴族たちとは裏はらに、インドやマラッカにおける功績をたたえてもらえるでもなく、昔ながらの最下級貴族の一人として扱われたにすぎなかったのです。
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「インドやアフリカ、ブラジルへの航海をしている多くの船のうちの1隻の指揮権を与えて下さい」というマゼランの請願も国王に聞き入れてもらえず、他国で職を求めること以外に術がなく、ポルトガルを捨て、スペインのセビリヤへと移住しました。親戚バルボサ家に起居するうちに、そこの娘ベアトリックスと結婚し、スペインの市民権を得ています。ポルトガルは、コロンブスに次いで、マゼランまでも、2人の偉大な発見者を失うことになったのです。

マゼランの内に秘めた航海に対する情熱は、あいもかわらず失われておらず、世界周航の冒険の旅の計画をスペイン王室に提出しました。一度は却下されましたが、3人の審査委員のうちの1人の商館人アランダの助けを得て、マゼランの未知の大洋にいどむ計画は、王室の承認を得ることになりました。

周到かつ細部にわたる準備に1年5カ月をかけてととのえ、5隻の船に265名が乗り組んで、1519年9月20日、マゼラン船団はスペインの港をあとにしています。11週間後、リオ・デ・ジャネイロに到着、2週間の休養と補給の後、さらに南下し、ラ・プラタの河口に翌年の1月10日に到達、15日間にわたる探査の結果ポルトガルで手に入れた地図で未知の大洋と大西洋を結ぶ海峡となっていることが誤りであることがはじめて判りました。

再び南下を続けて、3月31日南緯49度の地に、人も動物も緑の樹木も見当たらない岩と砂のものさびしい未知の湾にたどりつきましたが、すでに冬季を迎えようとしていました。この付近は、風は吹きすさび、海は荒々しく波だち、雪とあられが舞っていました。マゼランは、新鮮な水源があることを知ったとき、ここで越冬することを命じましたが、そのうちに不安と命令に対する不平不満から、船団内に反乱が起き、1人の犠牲者と2人の処刑者、2人の流罪者をだして、越冬の予定を短縮して8月25日、船団は南へ向かって航海を続けることとなります。

その2日後、気象条件はさらに厳しくなり船団の1隻「サン・ティアゴ号」が難破したサンタ・クルス河口で停泊し、再び2カ月の越冬をしました。実は、このサンタ・クルス河からあと2日間航海すれば、マゼランが夢に見た海峡があったのです。苦悩の末、航海続行の命を1520年10月18日にマゼランはくだしました。それから3日目の10月21日、断崖の岩礁にかこまれたいく先知れぬ湾が開けているところにたどりつきました。

依然として波は荒れ、人影もなく、だれもが今までと同じ失望を重ねる湾だと気乗りしませんでしたが、マゼランは2隻を外湾、ほかの2隻は内湾深く進めて調査し、5日後に戻るよう命じていました。これが最後の賭けでありました。静まることを知らない嵐は続き4日目を迎えたところで嵐はおさまったものの内湾へ向かった船からは何の手がかりも得られませんでしたが、その後驚くべきことが起こりました。内湾が曲がりくねった長い長い渕で、水がいつまでも塩分を含み、深く、広く或いは狭い岩肌で奥深く続いているとの報告を受けました。マゼランは、これぞまさしく大洋に通じる海峡であると信じ、希望に満ちて4隻の船をこの迷路に突入させました。この時、夢が現実になりかけたことを記念して、マゼランはこの海峡を「聖者の海峡」と名付けています。現在の呼び名「マゼラン海峡」は、彼の忍耐と勇気を記念して後世になってつけられたものです。

この水路で、慎重に調査を繰り返しながら、1カ月間前進を続けましたが出口は見当たらず、イワシ川河口で大きく水路は分かれていました。そこで2つの水路を2隻ずつで探索したのですが、南東水路に向かった2隻のうち、マゼランにこの先の航海は、一度スペインに戻り食糧や装備をたてなおしてからやりなおすよう進言したゴメスの乗った「サン・アントニオ号」は、行方をくらまし戻ってきませんでした。

イワシ川河口で、3日間、真水とイワシで何カ月ぶりかのたっぷりとした食事をとり、休養をして元気をとり戻した3隻の船団は、11月21日再出発し、数日後にマゼラン海峡を通過し、未知の大洋がはてしなく広がっているのを見ました。

西の水平線のはるかかなたには、目指すモルッカの香料諸島や、宝の島々があり、中国、ジパング、インドが、そしてその先無限のかなたには、第二の故郷スペインが続いていると信じました。ヨーロッパの船が渡ったことのない未知の海原へ向かって、最後の勇気をふりしぼって帆を上げたのは11月28日です。

コロンブスが大西洋を横断するのに要した日数の3倍の100日間の航海を続けても島かげ一つ見当たらず、無風のために船はなかなか前に進まず、食糧は底をつき、極度の衰弱と病魔におそわれて、乗組員の数も1人減り、2人減り、すでに1割のものが姿を消していました。

水も果物もない珊瑚礁の諸島「ツアモツ諸島」の東端(西端を通れば楽園の島々があったのですが)を経て(マゼランは「不幸諸島」と呼んでいる)、壊血病や餓死が続き全船墓場化する直前の極限に達した1521年3月17日、やっとグァム島へ到達し新鮮な肉や野菜のスープを食べることができました。10日間のうちに病人も快復し、全員が元気をとり戻し、3月28日にはフィリピンのセブ島に上陸しました。友人セラーノとスパイスが待つ最終目的地モルッカ諸島へ向かうための最後の休養をとることとしました。

マゼランは、マラッカ海戦以来、身辺に従えてきた一人のマライ人奴隷エンリケを兵士と共に、まず、平和の使者として上陸させました。この時エンリケは島民の語る言葉の部分を理解することができるという劇的な体験をしています。彼が、一人の生きた人間として、地球を1周して再び故郷の言葉の断片を耳にした最初の一人であるということができます。スマトラ島、インド、アフリカ、リスボン、スペイン、マゼラン海峡、ツアモツ諸島、グァム島、フィリピンセブ島へと辿り着き、マライ語の言語圏に到達したのです。マゼランが、地球は丸いことをこの時初めて実証した記念すべき日です。
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このセブ島で、平和なうちに十分な休息をとりました。近くの島々の酋長たちも儀礼にやってきましたが、将来この島々を植民地として獲得するため、極めて友好的に、丁重に接することを心がけました。用心深く、先見にすぐれ、計算づくめで行動するマゼランが、ただ1つの軽率なあやまちを犯して運命の日を迎えたのは、セブ島に上陸してから約1カ月後の4月26日のことです。

休養と食糧の補給のみにとどめて西南へ向かえば凱旋の勇となりえたのに、セブ王の温かいもてなしを受けたマゼランは、将来、セブ王をスペイン国王の同盟者として、他の島々の酋長のだれよりも強い権力者にしておくための布石を打っておこうと考え、セブ王に反抗的なマクタン島のシラプラプ酋長を武力でこらしめておこうとしました。セブ王はあまり喜びませんでしたが、1000人の援軍を用意すると申し出たので、今さら引き下がることもできず、小さな島の裸の部族相手なら、すぐれた武装のスペイン人10名であしらえるとして、マゼラン自ら威厳を示そうとマクタン島に上陸しました。結果は1500の島民に凱歌があがり、スペイン軍は8名の死者を出し、左脚が不自由であったマゼランも敵の槍の雨を浴び、この無意味な戦闘によってばかげた屈辱的な死を遂げたのであります。

マゼランの死後、新しく指揮官になったセツランは、エンリケを冷たく扱ったため、エンリケの反抗に合い、エンリケとセブ王が仕組んだ陰謀の宴席に28名と共に参加し、殺されました(5月1日)。スペインを出る時、265名いた乗組員は115名にまで減り、航行が危ぶまれる「コンセプシオン号」はここで焼きはらわれました。熟練者を失った2隻の船は、手さぐりでモルッカを目ざしめくら航海を続けました。モルッカ諸島へ着いたのは、11月に入ってからで、ティドーレ島に上陸するまでに母国出帆後実に2年3カ月を要していました。この時すでに、マゼランの友セラーノは、毒殺に遇い、数週間前に死んでいたのです。地球を1周しようという野心を持ち、再会を誓い合っていた2人は、セブ島とテルナテ島というわずかな海洋をへだてて、同じ頃、同じような無残な死を遂げていたことは、何の因果であったことでしょう。

マゼランが生涯夢見続けてきた5つの香料諸島の一つティドーレ島は、まさに幸福の島で、上陸した一行は、スパイス、砂金、食料などを容易に求めることができました。老朽化して修理を必要とした司令艦「トリニダード号」と乗組員50名を残して、デル・カーノが指揮をとる47名が乗り組む「ビクトリア号」は、宝物と食糧を満載にして、母国スペインへ向けて最後の航海に旅立ちました。ポルトガルの支配圏であるインド洋を大きく迂回して避けたことと、5カ月分の食料は積んだもののただ一つ食塩が不足したため、途中で多量の腐敗した肉は廃棄せざるを得ず、壊血病に悩まされ続けました。5カ月の無寄港航海の末、9月6日故郷の港に錨を降した時には、船には疲れはてた18名の乗組員がいたにすぎませんでした。

3年余の歳月と、その間の冒険と苦難の航海は、約200名の犠牲者と4隻の船を失いましたが、18名の帰還の知らせがヨーロッパ中に広まると熱狂的な反響が起こり、地球は回転する円球で、世界は1つの海で皆つながっていることが立証され、宇宙、天体に関する考え方が急速に変様し、近代化への偉大なる礎(いしずえ)となったのです。

持ち帰ったスパイスは、この冒険に費やした暴大な投資と多大な犠牲をつぐなったうえ、なお純益を生むほどの価値がありました。

以降、スペインの海洋進出熱は増し、メキシコ、ペルー、チリー、西インド諸島、フィリピンなどを次々に領土化し、世界最強の一国として一時代を築き、新しい産物として馬鈴薯、さつま芋、トマト、トウモロコシ、チョコレート、パパイヤ、チューインガム原料、七面鳥、たばこなどとともに、スパイスでは唐がらし、バニラ、オールスパイスなどをヨーロッパにもたらしました。新産物は次第に世界各国へ広まっていったのです。
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